【若松氏手記】まだ、ささやかな夢がある
『万球一会(ばんきゅういちえ)』
30年前に知人が私らしいと贈ってくれた造語だ。何万もの球を打ち返してきて、今の私がある。ライバルの投手だけでなく、打撃投手ら多くの人が私に白球を投げてくれた。指導や激励という“ボール”もあった。多くの出会いが、私を殿堂へと押し上げてくれたと感謝している。
社会人だった昭和45年(1970年)の冬、予想もしなかったドラフト指名を受けた。札幌を訪ねてくれたスカウトや中西太さんから逃げ回っていた。理由がある。
北海高時代、札幌・中島公園で長嶋茂雄さんら巨人の選手に出会って「プロは体の大きい選手ばかりだ」と驚いた。北海道で見ていたプロ野球は、私にとって遠い場所だったのだ。
「3年だけガムシャラにやって、ダメなら札幌に帰る」。こう誓った私を三原脩監督と中西コーチが導いてくれた。柱を両手で横からつかんだ状態で下半身を動かし、畳を足の裏でつかむようにして打撃の感覚を体に刻み込んだ。妻(正枝さん)も自宅でのティー打撃で、新聞紙を丸めて作ったボールをトスしてくれた。いま思えば、身長が1メートル66しかなかったからこそ努力できた。もう少し大きかったら、横着していただろう。
19年間変わらずヤクルトでプレーできたことが、何より幸運だった。当時の松園尚巳オーナーには「体が小さいのだから、人一倍がんばれ」と特に声をかけていただいた。
広岡達朗さんには守備とリーダーシップの必要性を教わり、78年に優勝できた。土橋正幸さんには公私の切り替えを学んだ。関根潤三さんは有終の美を飾らせてくれた。野村克也さんには、指導者のイロハを教わった。
私にはまだ、ささやかな夢がある。機会があれば、長打力のあるスイッチヒッターを育ててみたい。そして、野球が好きな少年たちが出会う『万球』のうちの一つになっていきたい。(サンケイスポーツ専属評論家)[サンケイスポーツ]
私が若松をハッキリと認識したのは、もう晩年の頃。代打の切り札になってから。
周りにヤクルトファンがいなかった事もあって、その偉大さを知るには時間が掛かった。
ただ、知ってからはその技術に憧れた。
同じ小さい体格でありながらパワーもあるスプレーヒッターだった若松に。
もちろん、真似もした。
しかし、タイミングの取り方が真似出来ず断念した事を覚えている。
今考えればシンクロ打法の一つだったのだが、当時の私にはどうしても出来なかった。
その技術のポイントで覚えているのは、左足(後ろ足)の送り。
イチローが世に出た時、打つ瞬間後ろ足がフリーになる事が特異な事とされていたが、
その理論を知っていた事、また『科学する野球』でも同様な技術が説明されていた事もあり、
全く違和感を覚える事は無かった。
これはもちろん中西太の教えなのだが、一見特異に見える技術も実は昔から日本にあったという事が、後々になって分かり驚いた事を覚えている。
中西太の教えといえば、流し打ちを教える際、新井宏昌には
「球の行きたい方向へバットを合わせてやれば良い」
というような教え方をしたが、若松には
「バットを合わせ、左腕でもう一押しさせる」
と、パワーのある打者向きの教え方をしている。
…なんか、若松じゃなく中西太の話になってるが(汗)
まぁとにかく、その教えをしっかり吸収し、自分のものにして結果を出した若松は凄いという事。
そんな若松の夢は「長打力のあるスイッチヒッターを育ててみたい」という事。
うん、やはりこの人は監督よりコーチなんだろうな。
師・中西太とはタイプこそ違うが、やはり打撃を教えるのがしっくりくる。
中西の後継者として、その技術を後世に伝え、多くの強打者を育てていって欲しい。
ハムもね、監督として考えずに打撃コーチで体力が続く限りやって貰えば良いんだよ。
監督なら結果によってはクビを切らなきゃいけない事もあるが、コーチなら監督によって
一軍と二軍の入替はあったとしてもずっと続けてもらう事が出来る。
ヨシコーチをもったいない形で手放してしまったが、その二の舞だけは避けたいところ。
ならば、コーチ育成の為のコーチのコーチとしてでも、とにかく繋がりを持って欲しい。
やっぱりね、数少ない地元出身のスターなんだから、良い形で関わって欲しいじゃない。
ヨシコーチだって、楽天に決まるまではずっと北海道に貢献したいって言ってたみたいだし。
北海道出身にこだわるとかこだわらないとかじゃなく、そういう繋がりを持とうよ、と。
そういう北海道の関わりを毛嫌いする「全国のファン」だって、「若松打撃コーチ」ならみんな納得すると思うし。
…まぁ、そういう考えを持つ事自体がおかしな話なんだが中田をしごく若松、なんて姿が近い将来見られると良いなぁ…
その横で一緒にしごかれる大村巌、なんてのもww